衝動と情熱だけで生きている

主に観劇の記録。

THEATRE+12月号 パクウンテインタビュー訳

こんにちは。毎日フランケンの感想を眺めては妄想で観た気になっている廃人です。

韓国の舞台雑誌『THEATRE+』の12月号に掲載されている聖母アンリ/怪物ことパクウンテ神のインタビューが素晴らしすぎて震えたので、これは日本のフランケン廃人たちに共有せねば・・・という謎の使命感に駆られて訳してみました。

みなさん、一緒に震えてください。

※できるだけ原文の意味を変えないように気を付けましたが、一部意訳した部分もあります。誤訳あったらすみません。

 

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前回のインタビューの時、『フランケンシュタイン』の話をして、現実と区別がつかないほど作品にはまっていたと聞きました。 今もそうでしょうか。

この作品と『ジーザス·クライスト·スーパースター』の初演がそうでした。 公演を終えると震えが止まらず、一日中悲しくて、人生全体が憂鬱に感じました。子供たちにしてみれば、パパはいつも泣いていて・・・作品ごとに大変な思いをされる映画俳優さんがいますが、私も似たような経験をしたと思います。

ところが、このような経験が再演と三連の時にかえって毒になったのです。 作品に集中しながらも、初演の時のように私の人生と繋がっていないので、これでいいのか、ちゃんとできていないのではないか、不安だったんです。芝居は芝居で、私の人生は続けなければならないのが正解なんですけどね。

年を重ねてある瞬間気づいたのは、ジレンマに陥った私の心が欲深かったのだという事実でした。 上手くなろうとした僕の欲。 舞台の上と外での人生の乖離をそのまま受け入れればよかったのに、乗り越えるためにより大げさになったようです。
感情が極限までいかなくても、舞台に心から近付き、演出家と音楽監督を信じれば解決できるはずなのに、それもまた観客は受け入れてくれるはずなのに、私の感情で120%を満たさなければならないという欲が大きかったのです。

今は人生と舞台を確実に分離した状態です。 なので『フランケンシュタイン』の 4度目の舞台が楽しみです。 アンリ/怪物の感情だけに偏らず、脚本にもっと集中することにしたんです。
怪物なら、これくらいは見せなければならないという負担を、ある程度克服した部分があると思います。 自ら試してみて評価を受ける場になればと思います。


三演の時も今シーズンも「ウンアンリが見られないかも」という話が出回りました。

このようなジレンマが再演からあって、三演がピークでした。何かと思ったことを繰り返す感じ、本当の感情ではなく以前の記憶を引用する自分に気づきました。
歌も演技も極限まで高めていかなければならないという強迫に苦しめられ、ストレスが頭のてっぺんまでありました。私は今何をしているんだろう、俳優として望ましくないと思い、三演が終わったらやめようと思っていました。

 

またやろうと決めたきっかけは何だったんですか。

いつまで逃げることはできませんし、今挑戦できなければ、これからの私の俳優人生で同じ壁が立ちはだかるはずなので、この難しい宿題を解きたかったんです。
何よりもワン·ヨンボム演出家、イ·ソンジュン音楽監督を信じていました。そして、彼らが作り出したこのものすごい作品の脚本を。
「私」という俳優で何かを見せようとせず、基本に戻ってみよう。同じ作品を4度もやるのだから上手くできるだろうと思われるかもしれませんが、私は初演以上の緊張感を感じています。 様々な試行錯誤を経験した後の自分との戦い、克服のための挑戦ですから。

 

すべての作品は特別だと思いますが、この作品を選択する時には特に多くの考えが必要なようです。

一瞬でも本物でない感情を入れた瞬間、俳優も観客も傷つきかねない作品なんです。
華やかなパフォーマンス、きらびやかな衣装、愉快な踊りで構成される作品も重要ですが、『フランケンシュタイン』は特に人間の深淵に触れざるを得ないので、私が慣れ、相手の俳優が慣れなければ、俳優も観客も互いに傷つきやすい作品です。

 

誰もが2014年の初演を忘れられません。演出者は「実体のないアンリと怪物のキャラクターを完璧に作ってくれたパクウンテ俳優に、限りなく感謝する」と言っていました。

2014年の忠武アートホールでの公演を、果たして忘れることができるでしょうか。俳優たちは皆、号泣しながら演じていました。みんな一緒に狂っていました。俳優はもちろん観客も。その大きな山を越えるのが難しいです。 映画も続編が難しいように。


初演の時、特別に思い出される場面はありますか。

怪物が人々を殺しているのに、胸の痛む怪物になったその気持ちを語る繋がりがないのです。その時、イ·ソンジュン監督が寺に籠り、 「傷」という曲を完成させて帰ってきたんです。
私は2分に満たないこの曲が一番好きです。 湖のほとりで子供と一緒に観客に背を向けて座り、この曲を歌う度に戦慄が走ります。そして、子どもの背中を押すシーンは、演出家の想像力がどれほどすごいかを見せてくれます。

 

この作品は俳優をいたぶる難曲で有名です。 音楽監督に「なぜこんなに曲を難しく書いたんだ」と文句を言ったことはありませんか。

三演の時までは喉を痛めたことはないです。 私はミュージカル俳優を長くやりたいですが、この作品だけは数ヵ月間声を出せなくなったり、公演中に必ず風邪を引いてしまいます。イソンジュン監督が悪いわけではありません。当時、私もできるからといって「怪物の感情線はもっと難しいのがよい」と煽ったんです。 シャウトも入れたんですが、ある日楽譜化されてました(笑)


公演をする間、緩急の調節ができないのでしょうか。

そういう風にできない作品ですから。 努力はしますが、簡単ではないと思います(笑)

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怪物役で一番感情移入できる部分はどこですか。

生まれたとたんに捨てられること、愛されることができないこと、醜い姿であること、殴られること、寂しいこと・・・毎回違うし、公演は毎回違います。
今回の公演を準備しながら、脚本に忠実にしたかった理由も、すべての台詞に力があるからです。私が感情を作っていくのではなく、脚本に集中して言葉を発すれば、選ぶことができないほど、どの言葉一つとして欠けるところがありません。
たとえばビクターが怪物に初めて会って発した言葉が「なぜ戻ってきたのだ。 何を欲するのだ。いったい何をしでかしたのだ」ですが、その言葉に集中すると簡単には吐き出せない。私が常に神経を使いつつも好きな場面が、北極での最後の台詞なんです。
周囲を見回して「お前は一人になったのだ。一人になるという悲しみを、理解できるか? これが私の最後の復讐だ。」
興味深いのは、この台詞にどのような感情が込められていて、怪物がどのような自我を持っているかということを、演出家が全く話してくださらなかったということです。私が自分で考えるのです。演出家には本当に感謝してます。

 

観客たちもこの点について議論します。怪物の中にアンリがいるのかいないのか。

アンリの記憶はあると思います。覚えているだけで、かといってアンリとは違うのです。 私の場合はそうです。ビクターとの様々なことは思い浮かぶが、魂はアンリではない状態。怪物でありクリーチャーです。3歳未満の知能、成熟した脳、復讐という感情がなぜ湧くのかも分からない、不足した人格体です。
ビクターとの最後の台詞に注目してみると、ある日は本当のアンリなのにアンリの姿を借りて怪物の言葉を話す時もあり、ある日は怪物なのにアンリを思いながら話す時もあります。なのでやる度に新しい感情が出るんです。
不思議なことに、僕が新しい感情で台詞を言うと、ビクター役の皆さんも新しく受け入れてくれるんです。少し違う感情を与えるだけで、これほど鳥肌が立つように言い換えてくるのか、舞台で真剣勝負をする心地よさが感じられます。
終わった後は本当に幸せです。 ドンソク、ウヒョク、キュヒョン、みんなとても上手です。

 

1部と2部で次元を変えて1人2役を演じますよね。相手の俳優が変わる姿が怪物の演技に影響を及ぼしますか。

私はアンリの話し方、アンリの顔、アンリの声から変化がなければないほどいいと思います。他の全ての人は完璧に変わりますが、怪物はそれほど変わらないではないですか。ビクターもずっとアンリと呼んでいます。私はアンリではないと叫んでるのに、死ぬまでアンリと呼びます。目を閉じたまま「アンリ起きろ!」というビクターの声を聞くと、混乱しながらも涙が出ます。 言い換えればビクターがアンリと呼ぶ時、怪物は幸せを感じるのかもしれません。
それを考えるのは観客の役割です。色々と考えることができて、開かれた結末です。

 

開かれた結末だからこそ気に入っているのですか。

そうです。 僕は「傷」が好きだと言ったじゃないですか。その場面で怪物が幼い子供に言います。「君も大きくなったら、人間のように振舞うだろう。」
人間は唯一、同じ空間に他の種(species)を入れない生き物です。虫が近づくと、すぐ殺すように。 怪物の立場で「なぜあなたたちは異なる種を認めないの?」という根本的な質問をするのです。「君たちが僕を殺そうとするから、 僕も君たちを殺してもいい。」単純な復讐の感情ではなく、種と種に対する人間性の考察なのです。 深く考えればきりがない作品です。 子どもを湖に落とす行為に対して 「なぜ子どもを殺すのか?」という概念ではなく、より大きな主題があります。原作自体が立派な文学ではありますが、このような根本的な考察を盛り込んだミュージカルが、他にこの世に存在するでしょうか。

 

それならば怪物にはどのような慰めと解決が必要なのでしょうか。

答えは一つだと思います。幸せにはなれないということ。原作でも怪物は科学者に対して、遠く離れて生きるから相棒を作ってくれと言っています。一方ではこうも考えました。 相棒がいれば幸せだったのだろうか。結論はありませんが、神の領域を見下したフランケンシュタイン博士の傲慢が作り出した悲劇なのです。怪物は、こんな質問をしにフランケンシュタインを訪ねてきたのでしょう。「人間の君と一緒に暮らせるように私の自我を認めてくれ。」異なる種は共に生きることができないので、悲劇に向かわざるをえない状況です。

 

物理的な時間が流れ、より多くの経験を重ねて、初演の時に会ったアンリ(怪物)と、再演・三演を経て会ったアンリが違って感じられる部分があると思いますが。

今回、私は怪物よりアンリに目が行きます。怪物は元々憐れな存在だとしても、アンリは一体どうしてそうなったのだろうか。友人のために自分の命を捨てることは普通じゃないでしょう。どのような人生を送ったら、そんなことができるのだろうか。 それでアンリの台詞に集中するようになりました。
アンリは自分のことについて観客に一度だけ話します。「親も兄弟もいないけど、君がいる」と。本当に辛くて孤独な人はむしろ「寂しくて死にたい」と言えないと考えた場合、ビクターにこのように言えるアンリが、どんな状況、どんな苦痛、どんなストレスを抱えて生きていたのか、わずかに想像することができます。
想像で新しい人物像を作っていますが、作れば作るほどアンリが可哀想です。

 

いつも怪物に集中していましたが、驚くべき発見です。

アンリの深い根がないと、怪物の悲しみが薄くなってしまうのです。だからといってアンリの演技路線が変わるわけではありませんが、私の中で真実の扉を叩くために、アンリを研究しました。 彼の人生をむやみに語ることはできませんが、怪物よりも憐みを感じるようになりました。

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イギリス国立劇場(NT Live)でダニー・ボイル監督が演出した演劇「フランケンシュタイン」ではベネディクト・カンバーバッチジョニー・リー・ミラーが役を入れ替えて演じて話題になりました。ビクターをやりたいとは思いませんでしたか。 

悩まなかったわけではないです。でも今回、はっきり悟りました。やらせてくださる限り、アンリに向かい続けているのが正しいと思います。 私はアンリと怪物を、自分から切り離すことはできません。

 

前回のインタビューの時、8年間共にしてきたレッスンの先生がいらっしゃると言いました。 相変わらずレッスンの時間が一番楽しい趣味ですか。 
もう10年経ちましたね(笑)一週間に三回は行こうと思っています。 私の楽しい趣味生活です。声楽を趣味にしている方が多いじゃないですか。

 

仕事の延長のような感じですね。 
ある程度、習慣になりました。経験上、人に会ったりお酒を飲んだりした後、体調管理に失敗してストレスを感じるより、規則的な生活を維持するのが私の精神衛生上は良いと思います。 喉を一度痛めると、回復までに時間が長くかかることもありますし。
なので人生に大きな変化を与えることが難しいです。時々私は「ミュージカル俳優=俳優+運動選手」ということがあります。 トッテナム・ホットスパーFCに新しく来たアントニオ・コンテ監督が、選手たちの体調管理のために献立からケチャップとマヨネーズを除いたという記事を読みました。そこまでいかなくても、ミュージカル俳優も同様に、体調管理に失敗すれば職場に通えない状況に陥りかねません。ぐっと身を引き締める必要があります。

 

バスケットボールのソ・ジャンフン選手も「子どもの頃はとても才能があって良かったバスケットボールだったが、プロ選手になってからは一日一日が戦争だった」と語っています。 パク・ウンテ俳優を見ると、よくこの言葉が思い浮かびます。 
解消する所がないのでたまに難しい部分もあります。でもある瞬間から、穏やかな方が好きになったんです。仕事をし、子どもを育てる、静かで自然な生活です。そのため、できるだけイベントや撮影、インタビュー、放送など、穏やかな波に大きな影響を与えるようなことはしないつもりです。どうしてそんな生活ができるの?と言われるけど、実際にやってみるとすごく楽です。お勧めです(笑)

 

歌の実力は言うまでもなく、『マディソン郡の橋』のときめき、『モーツァルト!』の子供のような純粋さ、『ベン·ハー』での貴族特有の優雅さなど、誰もできない演技だと思いました。 
私も演技が本当に面白いです。 実は演技も学ばなければならないのですが、別々に習うには時間が足りないんです。毎回新しい作品に参加するたびに演技的な面を覗こうと努力し、演じたことがある作品でも、どうすればもっと発展させられるか、先輩たちにアドバイスも求めます。ありがたいことに、妻が演技の先生です。「今のその演技は偽物だ」と鋭く指摘してくれるんです。
夫婦間でそれが可能ですか?)最初は難しかったのですが、認めて受け入れていくうちに、少しずつ増えていくものを発見しました。 妻が与える最も良い助言は「演出家と音楽監督から与えられたテキストを信じろ」でした。大劇場だから、遠くの観客までよく見えるように動作を大きくしないととか、腹が立つ台詞だから、憤りを交えて言わないとなど、ちょっと大げさな部分までチェックしてくれます。「今のセリフは語りじゃなくて歌みたいだけど?」こんなフィードバックを受けながら、少しずつ理解しています。

 

最後に、『フランケンシュタイン』というミュージカルはパク・ウンテにとってどのような意味がありますか。 
以前は『モーツァルト!』のように私を有名にしてくれた作品、ファンが愛してくれる作品だと思っていました。でも最近は、この作品が僕を成長させてくれると思っています。パク・ウンテという俳優が一層レベルアップするための栄養分。より強固な木になるための土壌。だからこそ、より一層楽しみにしています。

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ウンテさんの作品や役への考察、深すぎませんか?
種の共存への問いかけ、アンリと怪物との境界、「傷」に込められた意味、ビクターからアンリと呼ばれた時に唯一感じる幸福・・・

観られないのが辛すぎる!!!

せめて映像が見られることを祈りながら、今日も北極に心を飛ばします。